百武の社会考察

2008年07月29日(火)
【ラップ・ミュージシャン エマニュエル・ジャル関連記事】
ラップ・ミュージシャン エマニュエル・ジャル関連記事

「俺には、5歳くらいからの思い出がある。
 あの時は、家族みんな一緒だった。

 そして、そこらじゅう、戦争だった。


 だれだれが死んだとか、よく聞いたよ。

 だけど、子どもには、
 「死ぬ」とかの意味がよく分からなかった。


 人がそこらじゅうで死ぬような所で、俺は育ったけど、
 子どもたちには、死体を見せないようにしていた。

 だから「だれだれは、どこへ行った?」とか聞けば、
 「そいつは、みんながいつか行く、別な世界へ行った」って
 答えがが返ってきたよ。



 俺には、何一つ、楽しい思い出はないね。

 あったのは、暴力とトラウマと、闘いだけだった。
 それが、俺の思い出のすべてだ。」
 
 
エマニュエルは、
アフリカの国、スーダン南部の土地に生まれた。

誕生日については、彼はこういう。

「俺は、たいてい、
 1980年6月1日だって答えてる。

 だけど、5万人の子ども兵に聞いてみろよ。
 みんな6月1日って答えるぜ。」



その後、エマニュエルは、
両親と離れ、エチオピアの学校へと向かう。

「戦争が激化したころ、俺たちガキは、
 別な街に行かされることになった。

 後で、母親が死んだって聞かされたけど、
 どんな風に死んだのかは知らない。

 俺は、6歳か7歳だった。


 親父が入っていた反政府軍SPLAは、
 子どもを隣の国の
 エチオピアの学校へ行かせるよう命令した。

 それで、俺たちは、歩いて
 エチオピアに行かなくちゃならなかったんだ。


 たくさん死んだよ。
 野獣に食われたり、川に落ちたりしてね。



 実際、少しの間、俺たちは学校に行った。
 俺が、始めて英語を勉強したのはそこだった。

 やがて、でかいやつがやって来て、
 規律だのを教えるようになった。

 そして、俺たちは戦い方を学んだんだ。」

エマニュエルは、8歳で銃の使い方を学んだ。

 
「俺が、最初に戦ったのは、
 「ソフト」なやつだったら、9歳だったな。

 村へ行って、動物とか盗むんだ。
 まあ、戦いの練習みたいなものだ。

 だけど村人に見つかって、仲間が殺された。

 それで俺たちは、
 全部の村を焼き払った。

 それが、俺の戦士としての最初の経験さ。

 まあ、誰もがみんな同じような感じで、
 「やったぜ!俺たちは戦士になっただ」ってとこさ。」


やがて、エマニュエルは、戦いの前線へと送られる。


「そのうちエチオピアの政権を守るために戦わされて、
 でも、結局負けて、俺たちは逃げなくちゃならなくなった。


 何千人も死んだぜ、泳げなくてな。

 ケニヤへ行ったやつもいたらしいけど、
 俺は、南部スーダンのジュバにたどり着いた。


 そこは、最も恐ろしいことが起こってた場所だった。

 若者は勇敢に戦ったぜ。
 自分たちが簡単に死ぬなんて知らなかったからな。」
 
 
「俺は、はっきりと覚えているぜ。
 人々がどうやって死んで行ったかをな。
 
 ヘリコプターが、人々を追い掛け回し、
 戦車が、ぶっ殺すんだ。」


「俺たちが何のために戦っていたか知っているかい?

 そうだ、自由のためさ。
 スーダン政権が、俺たちを押さえつけていたからな。


 やつらは「シャーリア法」ってのを始めて、
 こいつは、つまり、イスラム教徒じゃないやつは、
 ちゃんとしたやつじゃないってことで、
 まともな仕事にも就けないってことになった。


 そして、奴隷制度があった。
 あんたが黒人だったら、あんたは奴隷なんだよ。」



だが、そんなエマニュエルが
子ども兵となってから4年後、
転機が訪れた。


「そのうち、SPLAで内紛が起きて、
 互いに戦うようになって、
 俺は戦う気力が失せて、逃げ出した。」
 
エマニュエルと友だちは、そこから逃げ出した。
そして、3ヶ月、砂漠をさまよった。

水はなく、乾いたトウモロコシを食べた。

「みんな死んで行ったよ。
 たくさんの骨を見た。
 
 水がなくなって、
 俺たちはみんな死ぬんだって思った。
 
 自分で自分の頭を撃ち抜くやつもいたよ。」
 

旅の始めにいた400人は、
最後には12人になった。


そして、エマニュエルはケニアにたどり着いた。


そこで、ボランティアに来ていた
イギリス人のエマに引き取られた。


だが、1993年、
そのエマも交通事故で死亡する。
エマニュエルが13歳の時だった。



・・・さて、あなたは、この戦争に翻弄された、
「アフリカのかわいそうな少年」の話を、
もっと聞きたいだろうか?


さらに彼には、
こんな人生が待っていた・・・



エマニュエルは、その後、
自分の心の支えとなっていた音楽の道に進むことを決意し、
ラップ・ミュージシャンとなった。


2005年、彼の最初のアルバムは、
ケニアのチャートのナンバー1を獲得した。

そして、彼は、イギリスへ向かった。


その年、欧米のミュージシャンたちは、
アフリカを支援するイベント「ライブ8」を行おうとしていた。

エマニュエルは、その主催者ボブ・ゲルドフへ直談判に行った。

「アフリカ支援のイベントなら、
 アフリカのミュージシャンも参加させるべきだ」
 
 
ライブ8でパフォーマンスした曲「Gua」・・・
エマニュエルの故郷の言葉で「平和」と名づけられたこの曲により、
エマニュエルの名は世界に知られる事になった。


その後、彼の曲は、
映画「ブラッド・ダイヤモンド」や
テレビシリーズ「ER」の12シーズン、
"There Are No Angels Here" の中で使われている。


「エマニュエル・ジャル(Emmanuel Jal)」は、

子ども兵士の徴用廃止を目指す連合
(The Coalition to Stop the Use of Child Soldiers)、
http://www.child-soldiers.org/

アフリカの貧困を解決しようとしている
Make Poverty Historyキャンペーン、
http://www.makepovertyhistory.ae/around-the-world.html

そして、
国際的な武器の規制を目指す
コントロール・アームズ・キャンペーンのスポークスマンであり、
http://www.controlarms.org/

次世代のスーパースターを期待されている
ミュージシャンの1人である。



エマニュエル・ジャルの母国、スーダン。

今、スーダン政権は、
スーダン南部地方との戦争を停止し、
ターゲットをダルフール地方へと変更した。

ダルフール地方では、
この5年間に45万人もの人々が殺され、
250万人が難民となっている。

国連の平和維持軍を受け入れたものの、
国連の対応は進まず、
今年、2月10日、
スーダン政府は、ダルフール地方に対し、
再び空爆を開始した。

それにより、新たに1万2千人の難民が発生したと、
国連は伝えている。


そして、スーダン・ダルフール地方と
国境を接する隣国チャド政府は、
2月11日、
これ以上、ダルフールの難民を
受け入れないことを表明した。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=28043506&comm_id=1808806

「エマニュエル・ジャル(Emmanuel Jal)」のサイト
http://www.emmanueljal.org/

12:46
コメント(0)
[コメントを書く]



<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。




w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
++新着ブログ記事++