渡辺博之


渡辺博之

渡辺博之(わたなべひろゆき 1921年1月1日生)
 [プロ野球選手]


 大阪府出身。旧制桃山中学校を卒業後、同志社大学に進学。エースとして活躍し、1940年と1941年には関西六大学野球で優勝。南海軍から入団の打診を受けるも拒否し、卒業後に召集される。戦後は会社員として働き、それから間もなく独立。御堂筋に洋品雑貨の店を構えていた。これと並行してノンプロの全大阪に参加。1946年から1948年まで、3年連続で都市対抗野球に出場。チームは、1947年大会では3位となっている。また、天王寺公園で行われる軟式野球にも参加し、活躍していた。

 1949年末に大阪タイガースに二軍が新設されると、その監督に渡辺の旧友・森田忠勇が就任し、その縁から同年12月24日に2軍要員として、大阪タイガースに入団。「草野球の選手がプロ入り」と話題になった。渡辺はこの契約の時点で既に28歳、年明けには29歳になる新人としては高齢での入団であった。1950年シーズンは当初は2軍だったものの7月に1軍昇格。投手として登板したものの1アウトも取れず4失点(自責点1)と結果が出ず、すぐに外野手(右翼手)に転向。野手転向後は、4番・藤村富美男の後を打つ5番に定着し、打率.301・ホームラン11本・44打点の好成績を収めた。その後1956年に一塁手に転向し、1957年まで、レギュラーとして活躍した。特に1954年シーズンは91打点を挙げ、中日ドラゴンズの杉山悟と共に打点王を獲得。同年の本塁打数は7本であるが、2リーグ制開始以降、現在に至るまでシーズン本塁打1桁で打点王を獲得したのは渡辺のみである。またこの年は、打率.353を記録し(与那嶺要の.361に続き打率2位)、ベストナインにも選ばれた。翌1955年も打率3割を打ち、ベストナインを獲得した。1958年2月に近鉄パールスに金銭トレードで移籍。しかし、かつてのような活躍はできず1959年オフに現役を引退。

 現役引退後は母校・同志社大学の講師となり、工学部助教授・教授を歴任。1961年からは野球部監督を務め、退任した1978年に明治神宮野球大会初優勝へと導く。教え子には笹本信二・田尾安志・島田芳明・中本茂樹などがいる。1975年からは教授も務めた。

 1990年10月2日、京都市の自宅で妻と共に縊死した。持病の心臓病の悪化と家庭内のトラブルを苦に心中したとみられている。

 1990年10月2日死去(享年69)


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