樋口一葉


樋口一葉

樋口一葉(ひぐちいちよう 本名:樋口奈津 1872年5月2日生)
 [小説家]


 東京生まれ。少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類いを読み、7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。1877年、本郷小学校に入るが、幼少のために続かず、吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学した。1881年、次兄の虎之助が分家し、陶器絵付師に弟子入りした。同年には下谷区御徒町へ移ったため、11月に上野元黒門町の私立青海学校に転校する。高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まずに退学した。これは母・多喜が、女性に学業は不要だと考えていたからだという。一方、父・則義は娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のもとで和歌を習わせたという。1886年、父の旧幕時代の知人である遠田澄庵の紹介で、中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門。ここでは和歌のほか千蔭流の書や古典文学を学んでおり、源氏物語などの王朝文学が一葉の初期作品のモチーフになっている。萩の舎時代に一葉は親友の伊東夏子や田辺龍子と出会い、助手として講義もしている。萩の舎は当時、公家や旧大名などの旧体制、明治政府の特権階級の政治家・軍人の夫人や令嬢らが通う歌塾だった。士族とはいえ元農民出身であったため、一葉は平民組として扱われ、上流階級の姉弟子たちにから「ものつつみの君」と呼ばれるほど内向的になる。入門して初めの正月、新春恒例の発会が近づくと、令嬢たちの晴れ着の話題など、着物の話はとても下級官吏の娘が競える内容ではなかった。それでも劣等感をはねのけ、親が借りてきた古着で出席した。名家の令嬢であった田辺龍子(三宅花圃)は「思い出の人々」という自伝の中で、「萩の舎」の月例会で、友人と床の間の前で寿司の配膳を待ちながら「清風徐ろに吹来つて水波起らず」という赤壁の賦の一節を読み上げていたら、給仕をしていた猫背の女が「酒を挙げて客に属し、明日の詩を誦し窈窕の章を歌ふ」と口ずさんだのに気付いて、「なんだ、生意気な女」と思っていたら、それが一葉で、先生から「特別に目をかけてあげてほしい」言われて紹介されたと、初めて一葉と会ったときのエピソードを紹介し、一葉は女中と内弟子を兼ねた働く人のようだったと書いている(このとき一葉15歳、龍子18歳。のちに2人は萩の舎の二才媛と呼ばれた)。

 一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引っ越しをした。1888年、戸主であった長男の泉太郎が死去し、父を後見に相続戸主となる。1889年、則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗し、同年7月に死去。一葉の父・則義と同郷で上京後の則義を支援した真下晩菘は明治後に私塾「融貫塾」を営むが、武蔵国南多摩郡原町田(東京都町田市)の渋谷仙次郎宅にはその出張所があった。仙次郎の弟が晩菘の孫である渋谷三郎で、晩菘を介した縁から1885年に一葉は三郎を紹介され、両者は許婚の関係にあった。三郎は自由民権運動の活動家で自由党員でもあり、その影響を受けた一葉は1889年の「雑記」で、男女同権について記している。一葉と三郎の婚約は、明治22年の則義の死後に解消される。則義の死後、樋口家には多額の借金があったのに渋谷三郎から高額の結納金を要求されたことが原因とされる。一葉は次男の虎之助を頼ったが、母と虎之助の折り合いが悪く、17歳にして戸主として一家を担う立場となり、1890年には萩の舎の内弟子として中島家に住み、塾の手伝い料として月2円をもらう。同年9月には本郷菊坂(東京都文京区)に移り母と妹と3人での針仕事や洗い張りをするなど、苦しい生活を強いられる。ただし、一葉自身は労働に対する蔑視が強く、針仕事や洗い張りはもっぱら母や妹がこなしていたといわれる。

 一葉は、遠視や弱視ではなく近眼のため、細かい仕事に向いていないということはないはずだが、針仕事を蔑視していたので、自分にできる他の収入の道を探していたところ、同門の姉弟子である田辺花圃が小説『薮の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、小説を書こうと決意する。20歳で「かれ尾花一もと」を執筆。同年に執筆した随想で「一葉」の筆名を初めて使用した。さらに、小説家として生計を立てるため、東京朝日新聞小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し、図書館に通い詰めながら処女小説「闇桜」を桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した。その後も、桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続ける。次第に、一葉は桃水に恋慕の感情を持つようになる。しかし2人の仲の醜聞が広まった(双方独身であったが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されない風潮であった)ため、桃水と縁を切る。その後、これまでとはスタイルの異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を刊行し、一葉の出世作となる。

 三宅花圃の紹介で平田禿木と知り合った一葉は、「雪の日」など複数作品を『文学界』で発表。このころ、検事になったかつての許婚者阪本三郎(前述の渋谷三郎)が求婚してくるが拒否する。生活苦打開のため相場師になろうと占い師の久佐賀義孝に接近し、借金を申し込む。吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが1894年5月には店を引き払い、本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)に転居する。この時の経験が後に代表作となる小説「たけくらべ」の題材となっている。12月に「大つごもり」を『文学界』に、翌1895年には1月から「たけくらべ」を7回にわたり発表し、その合間に「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜」などを発表し、「大つごもり」から「裏紫」にかけての期間は「奇跡の14ヶ月」と呼ばれる。1896年には『文芸倶楽部』に「たけくらべ」が一括掲載されると鴎外や露伴らから絶賛を受け、森鴎外は「めさまし草」で一葉を高く評価した。馬場弧蝶や島崎藤村など『文学界』同人や斎藤緑雨といった文筆家が多く訪れるようになり、文学サロンのようになった。5月には「われから」、『日用百科全書』に「通俗書簡文」を発表。しかし一葉は当時治療法がなかった肺結核が進行しており、8月に樫村清徳・青山胤通らの医師により恢復が絶望的との診断を受けた。

 1896年11月23日に24歳と6ヶ月で死去。一葉の作家生活は14ヶ月余りで、死後の翌1897年には『一葉全集』『校訂一葉全集』が刊行された。墓は樋口家の菩提寺である築地本願寺別院で、のち杉並区永福の築地本願寺和田掘廟所へ移された。法名は、智相院釋妙葉。1922年には一葉の二十七回忌が行われ、一葉の妹くにが樋口家の縁戚で生糸貿易商である廣瀬彌七とともに文学碑の建造を計画し、廣瀬や地元有志の出資により東山梨郡大藤村中萩原(甲州市塩山)の慈雲寺境内に建てられた。同年10月15日に除幕式が行われている。式典には旧友も参列し、元婚約者の阪本三郎は親族として焼香した。旧友たちはこれに憤慨し、さらに阪本が、日記の中で一葉から蛇蝎のごとく書かれたことに対する弁解を講演会でしたことにも腹を立てた。阪本は一葉と婚約解消後、大官の令嬢と結婚し、行政裁判所評定官から秋田県知事、山梨県知事を務め、式典当時はすでに免官していた。

 1896年11月23日死去(享年24)


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