スザンヌ・ランラン


スザンヌ・ランラン

スザンヌ・ラシェル・フロール・ランラン(Suzanne Rachel Flore Lenglen 1899年5月24日生)
 [フランス・テニス選手]


 パリ出身。第一次世界大戦後、1920年代前半の女子テニス界に君臨し、テニス競技を確立した往年の名選手のひとりである。ランランはフランスが生んだ最大のスポーツ選手であり、今なおフランスで“テニスの女神”として敬愛されている。ランランは幼少時にあまりにも病弱な子供だったことから、父親が娘の健康増進のためにテニスを勧めたという。11歳の頃から父親のコーチを受けたランランは、15歳になる頃には一人前の技量を身につけていた。15歳の時、ランランは1914年の全仏選手権混合ダブルスで、マックス・デキュジスとペアを組んで初優勝を果たした。この後第1次世界大戦が勃発し、テニスのトーナメントも戦争のため開催中止を余儀なくされたが、ランランのテニス経歴は終戦後に開花する。

 ランランの出発点は、1919年のウィンブルドン初優勝であった。この決勝戦で、ランランはウィンブルドンに過去7度の優勝を誇るアメリカのドロテア・ダグラス・チェンバースと対戦した。40歳を迎えていた対戦相手との10-8、4-6、9-7に及ぶ歴史的な激戦を制し、ランランはウィンブルドン初優勝を達成する。それから同選手権では大会5連覇(1919年〜1923年)を達成した。1924年に優勝を逃したのは、病気のため4回戦の試合終了後に棄権したことによる。それから1925年に6度目の優勝を達成。ウィンブルドン6勝はアメリカのビリー・ジーン・キング夫人と並ぶ歴代5位タイ記録である。ウィンブルドン選手権の女子ダブルスでは、アメリカのエリザベス・ライアンとペアを組み、ここでも1919年〜1923年・1925年に優勝した。混合ダブルスは1920年と1925年に優勝がある。

 地元の全仏選手権でも、1920年から1926年の間に女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてで優勝し、通算6勝を挙げている。しかし、当時の全仏選手権はフランス人選手のみに出場資格が限定されていた。同選手権は1925年から現在のような国際大会となった。ランランの最初の4勝(1920年〜1923年)はフランス人選手のみの時代、後の2勝(1925年、1926年)は国際大会としての優勝として区分される。そのため、ランランの「全仏選手権6勝」は現在の女子テニス界の「公認記録」から除外されることになった。現在の全仏オープン女子シングルスの最多優勝記録は、通算7勝を挙げたクリス・エバートである。ランランと同じ6勝を挙げたシュテフィ・グラフは大会単独2位記録として数えられ、5勝のマーガレット・スミス・コート夫人(オーストラリア)が歴代3位に位置する。

 ランランは1920年のアントワープ五輪でも、女子シングルスと混合ダブルスの2部門で金メダルを獲得した。女子シングルス決勝では、イギリス代表のドロシー・ホルマンを6-3、6-0で圧倒している。混合ダブルスではマックス・デキュジスとペアを組み、決勝でイギリスのマックス・ウーズナム&キティ・マッケイン組を6-4、6-2で破ったが、エリザベス・ダイアンとペアを組んだ女子ダブルスでは銅メダル止まりであった。1921年の全米選手権は、ランランのテニス人生で最もつらい出来事だった。ノルウェー人選手のモーラ・マロリーと2回戦の対戦中、第1セットを2-6で落としたランランは、試合中に咳き込み、泣き出してしまったのである。そして試合続行不可能を宣言し、棄権となった。それ以後、ランランはもう2度と全米選手権でプレーすることはなかった。これはランランが1926年にプロ転向するまでの、アマチュア選手としての経歴を通じて唯一の敗北となる。マロリーに対しては翌1922年のウィンブルドン決勝戦において、6-2、6-0で雪辱を果たした。

 1926年2月16日、フランスのカンヌにある「カールトン・テニスクラブ」でランランとヘレン・ウィルスの試合が実現する。ともに無敵の2人の試合を見ようと、会場には4000人の観客が詰めかけるセンセーションを巻き起こした。2人は期待にたがわない“世紀の名勝負”を繰り広げ、先輩のランランが6-3、8-6で勝利を収めた。同年7月、ランランは世界で最初の「プロテニス選手」になった。興行としての「プロテニス」を創設するため、スポンサーとなった「C・C・パイル社」によるプロ選手契約書に署名した、世界最初のプロテニス選手たちの顔触れは以下の通りである。フランスのスザンヌ・ランラン、ポール・フェレー、アメリカのビンセント・リチャーズ、ハワード・キンゼイ、ハーベイ・スノッドグラス、メアリー・ブラウンの6名が、1926年の冬から1927年にかけて北アメリカで行われた史上初の「プロテニスツアー」に参加した。世界初の女子プロテニス選手となったランランとブラウンの興行試合は、ランランの38戦全勝に終わった。

 その後ランランは南アメリカを旅行し、後にテニス・スクールを開校したが、1938年7月4日に白血病のため39歳の若さで死去した。亡くなる数日前に視力を失っている。パリ北郊のサン=トゥアンの墓地に埋葬された。全仏オープンの会場であるスタッド・ローラン・ギャロスには、ランランの名前を冠した「スザンヌ・ランラン・コート」がセンター・コートに隣接している。同大会の女子シングルス優勝カップにも「スザンヌ・ランラン・カップ」の名前がある。

 1938年7月4日死去(享年39)


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